L.A.のクラブで観客を総立ちにさせたセクシーシンガー

L.A.のクラブで観客を総立ちにさせたセクシーシンガー
Meyouさん(アーティスト )
ここがキニナル!
榎並です! 今回は、歌とダンス、そしてラップでオーディエンスを魅了するMeyouさんに会いにいきました。90年代に曲とダンスが海外のプロデューサーから注目され、L.A.のクラブでのパフォーマンスでアメリカの観客を総立ちにさせてしまったセクシーシンガーです。帰国後もV6やテレビCFに楽曲提供やダンス指導などで大活躍。ちょっと緊張しましたが、貴重なお話を伺うことができました!(インタビュアー:榎並千陽

ヒップホップに一直線の少女

 

―小さい頃から歌が好きだったのですか。
生まれたとき、泣き声があまりにも大きくて、私だけ新生児室から院長先生の部屋に連れていかれたそうです。あなたは生まれながらに歌う運命だったと母から言われました(笑)。物心ついた頃から歌っていて、自分で詞を作ったり振り付けしたり、自分でつくることが大好きでした。実家に行けば今でもカセットテープに残っているかもしれないですね。ちょっと聴いてみたい(笑)。
―私も家にカラオケがあったので、3歳のころから歌っていました。当時のテープを聞いたら、吉幾三の『酒』を延々と歌っているんです(笑)。
ダンスは中学くらいからブレイクダンスやヒップホップを始めました。まだ日本にあまりラップはなく、海外のラップを聴いていました。当時、マイケル・ジャクソンの振付師さんとすごいダンサーが大阪に遊びに来ていて、彼らと兄弟のように遊んだり、クラブの前でラップをしているのを見たりしてアメリカを感じ、遊びながら覚えていきました。どこかで習ったりしたことはなくて、クラブでショーをやったりしながら、高校のころからラップも自分で表現することを覚えました。
―ヒップホップのどんなところに惹かれたのですか。
エネルギーの熱さです。黒人から生まれた音楽ですが、辛いこと、悲しいことがあっても、それを言葉にして、ダンスにして、自分自身の火を燃やすことこそヒップホップだと思うんです。今は少し気持ちが落ち着いていますが、若いときに接したときの気持ちやヒップホップの文化は絶対に忘れられません。
―影響されたアーティストは?
やはりマイケル・ジャクソンです。ダンスも独特ですごい才能ですし、何を歌ってもマイケルになる。リズムとダンスと歌が一体になっています。今でもマイケルは特別だと思います。ディズニーランドに行ったとき、マイケルが3Dで演っていて、そのダンサーが一緒に遊んでいたダンサーたちでした。あれはしびれました。
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アメリカのステージで喝采を浴びる

アメリカ時代のスナップ

 

―アメリカで活動することになったきっかけは何ですか?
それまでもエイベックスで久保田利伸さんの曲を演ったりしていたのですが、日本の女性シンガー5、6人が海外のプロデューサーと組んで作ったコンピレーションアルバムがきっかけになりました。当時ヒップホップで有名な方たちに曲を提供していたスティーブ・ホプキンスさんとタッグを組むことになり、1曲作ったらすごく気に入ってくださって、スタジオのあるロサンゼルスに来てほしいというラブコールをいただきました。私は詞とメロディー、彼はトラックという感じでアルバムが完成し、海外でキャンペーンをやりました。それが日本のTSUTAYAレーベルの目に止まり、2002年に日本でもリリースされました。このアルバムが『Infinity』です。そこからいろいろなつながりが生まれました。
―本場アメリカで感じたことは?
アメリカでズタズタに打ちのめされて帰ってくる人もいますけど、私は日本よりやりやすかったですね。日本では100の実力があっても70くらいを出して、残りはミステリアスに残しておくような奥ゆかしさが受けます。30は小出しにしたほうがいいんですね。ところが、アメリカでは「もっとあるよね、出して」と言われます。「出しちゃっていいんですか?」という感じで、100を120になるほど遠慮なく出していいんです。それが自分のスタイルに合っていました。
―「Infinity」が完成した2002年には、いよいよアメリカでのライブ活動も始まりました。
とにかく全部を引き出してくれる国なので、日本でできないようなことができました。ブリトニー・スピアーズさんの振付師がプロデュースするイベントにも出してもらったんですが、さすが本場ですから、やっぱりすごいんです。トリに近い良いポジションだったので、すごい方たちのステージをずっと見ながら、「あと何番……」と緊張しながら自分の番を待ちました。
―ヒップホップの人をB-Boyというそうですが、そのB-Boyが世界中から集まる「B-Boyサミット」というイベントに出演されたそうですね。
いつものようにラップと歌を演ったのですが、日本語混じりのラップに、「英語じゃないの? どこの国の人?」と思われたんです。でも、そのまま帰るのはイヤだと思ったので、マイクをぱっと投げて、本気で踊ったら、お客さんがドワーッと湧きました。ライブの後でプロデューサーが走ってきて、「すごかった」とハグしてくれました。「君のタレントは半端ないよ、絶対アメリカに来てやった方がいい」と言われて、最高に気持ちよかったです。
―殻を破ったという感じですね。そういう思いきったパフォーマンスをしたのはそれが初めて?
マイクを置くことはあっても、投げ捨てるまでの冒険をしたのは初めてでした。ガンッという音もしましたし、怒られるかもと思いました。でも、そこまで自分を持っていけたのはそれが初めてでした。
歓声を浴びたイベント「B-Boy Summit」

 

―お客さんがワーッと総立ちになって拍手してくれる瞬間、あれを起こしたのですね。それはもう緊張も一気になくなって感動に変わりますね。
「君は会場の端から端までジャックしている。視線の集め方を分かっている」と言われました。「普通は後ろのお客さんは見てくれないけど、君は全部の視線を持っていった」と。確かにそういう感じはあって、自分が「注目!」という感じを出しているのがわかりました。すごく良い経験をできたと思います。
―アメリカは日本と違うと思ったエピソードなどあれば教えてください。
スタジオでリハーサルをしているとき、おじさんがガラス越しに覗いていました。誰だろうと思ったら、あとでレコード会社のプロデューサーだということを知らされました。「あなたのリハを見てすごく気になったそうで、連絡が欲しいと名刺を置いていきましたよ」と。日本ではそういうことは絶対ないので、アメリカは出すものを出せたらこんなに早いんだと思いました。
―日本だと、たくさん営業して「しょうがないな、見に行ってやろうか」という感じですよね。
そう、オーディションを受けたりね。アメリカではそういう人たちが自ら足を運んで見にきてくれるんです。アメリカの音楽番組「MTV」で優勝したICE-Tという有名なラップグループが、ダンサーつながりで「一緒に曲を作ろう」と声をかけてくれました。それでハリウッドの山の上にある、ジャグジープールがあるようなスタジオでデモを録ることになったんです。すべて、テンポが速いんですね。
―その後の活動はどうなりましたか。
エイベックスにいたとき、ホイットニー・ヒューストンやマドンナをプロデュースしているベビーフェイスさんからオファーをいただいたり、LAに行く前にも有名なラップグループのウータン・クランのプロデュースのお話もあったりしたのですが、どちらもいろいろ問題があってかないませんでした。君は絶対アメリカに残ったほうがいいと言われたのですが、結局帰ってきてしまい、キングレコードでアルバムを作ることになりました。
―どうして帰ってきてしまったのでしょう?
アメリカのエンターテインメントは本当に好きなんですが、日本語には英語にできない含みのある奥深い言葉がたくさんあるので、日本語の歌詞をまだまだ書いていきたいという思いもありました。与謝野晶子さんの言葉の世界とか凄いですよね。
でもアメリカでの反応がすごく良かったし、今でも自分はアメリカのエンターテインメントにすごく向いているから、もう一度アメリカには行きたいですね。年齢は重ねましたが、ずっと足を止めずにやっているので、自信はあります。もう一度チャレンジしてみたいと思います。
―いろいろなオファーがあったり、良い出会いがあったりして、自分に自信がついたことがパフォーマーとして続けていく支えになったのでしょうね。
そうですね。ただ、文化など関係なく何もかも全部捨てて世界のスターになる、というような踏んぎりは自分自身にありませんでした。
―楽しくやりたいということですかね。自分が楽しめる価値観というか。
そういうことかも。そうか、今、自分の謎が解けました(笑)。
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