激動の境遇からレンタルスペース事業に挑む不動産業界の「美しすぎる社長」

激動の境遇からレンタルスペース事業に挑む不動産業界の「美しすぎる社長」
激動の境遇からレンタルスペース事業に挑む不動産業界の「美しすぎる社長」
株式会社ブルーロータス 代表取締役 若杉真里氏
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シェアリングエコノミーが広がり、副業的にレンタルスペースに投資する人も増えている。不動産を購入せずに借り、時間貸しの貸会議室やパーティースペースとして活用すれば、賃料以上の収入になる。高稼働させれば大きな利益が得られる可能性もあるという。そんな、「自分は動かなくても収入が入る仕組み」としてのレンタルスペースをプロデュースし、成功をおさめている株式会社ブルーロータスの若杉真里氏にお話を伺った。
(インタビュアー:吉田久則)

養護施設で育ち、働きながら大学へ

―お美しいのでびっくりしていますが、もともとモデルさんだったとか?
小さい頃は漫画の「ガラスの仮面」の影響で、女優さんになりたかったですね(笑)。小学校1年生のときに劇団ひまわりに入りたいと言ったら、「バカいうな」と親に大反対されました。習いごとはピアノとバレエ。バレエは「この子は闘争心が強すぎて向いてない」と言われ、6歳くらいでやめました。美しく踊るよりも、他の人より先に行きたいタイプだったんです。やめさせられた理由を後から聞いて、「ああ、なるほど」と思いましたね。情操教育には向いてない子どもだったようです(笑)。
3歳くらいの頃、父が起業し、一時期は大成功したようですが、5歳の時に離婚、その後は事業も失敗したと聞いています。だから、一瞬、お嬢様だったのですが、その後の生活は大転落でした。
―といいますと。
7歳の時に母が再婚、8歳の時に妹が生まれました。その後、両親による虐待が始まったんです。小学6年生で児童相談所に入りましたが、連れ戻され、再び1年近くを実家で過ごすうちに暴力はひどくなる一方でした。中学1年の終わり頃、実父のところまで行ってこれまでの養育費全額をもらってこいと母親から言われました。一人で長野まで行きましたが、1円ももらえません。きわまって母に電話したら、養育費を払わないのは犯罪だから、警察に行って父親を訴えろ」と言われました。そこで交番でその通り伝えたところ、家出少女として保護され、長野の児童相談所に保護されて埼玉県上尾市の児童相談所に送られました。

桐野夏生『路上のX』
桐野夏生『路上のX』

―なんと……。桐野夏生の『路上のX』という小説がありますが、それを地でいってますね。

児相の一時保護所って最長2カ月までしかいられず、家に戻るか、教護院(今でいう児童自立支援施設)に行くか、養護施設かという3択になります。虞犯少年は教護院に行くことが多く、遺棄少年は養護施設に送られることが多いようです。私は養護施設に行き、高校を卒業するまでそこで過ごしました。

―ご家族から離れたのですね。ごきょうだいは。
妹の連絡先は知っていますが、彼女は私が結婚したことも、子どもがいることも知らないと思います。妹は妹で、私のように強いタイプではなく、私が家を出た後も大変だったようです。
―学校などでもつらい思いをされた?
施設に入るまでは、学校にも家にも居場所はありませんでした。先生や友達は虐待に気づいてかもしれませんが、とくに何もしてくれませんし、私も自分の境遇を話すことができませんでした。いじめに遭うこともありました。ろくな服も着ず、食事も満足にしていなかったので、いつもお腹を空かせていました。施設に入って、ようやく人間らしい生活ができて幸せになりました。
―今ではお母様をどのように思っていらっしゃいますか。
10代の頃は、親が絶対的な存在でしたので、悪いのは自分だと思っていました。自分が悪いから殴られた、自分が悪いから捨てられたと。大人になると客観的に見られるようになり、そうではなかったと思うようになりました。母は2008年に自死しました。私の人生で一番辛いできごとでしたが、ある意味、母に対する感情がそれで浄化されたように思います。小さく残っていた母に対する憎しみも消え、苦労した母を可哀想だったという許しの心が生まれました。
―施設ではうまく馴染むことができましたか。
養護施設は、特有の寂しさや苦しさ、「見捨てられ感」をもつ子どもたちがたくさんいました。中学校に上がるあたりからグレはじめる子が多いのですが、本当はとても心の優しい良い子たちばかりです。非行に走り、窃盗やカツアゲなどで鑑別所に送られるのですが、私は幸いにして、そういう方向にはいきませんでした。

なぜ非行に走らなかったのか、思い当たる理由が3つあります。
ひとつ目は、勉強にあまり苦労しなかったことです。中学生の時は頑張って勉強していたので良い成績を取ることができ、先生や周りに認められている感がありました。
ふたつ目は、友達に恵まれたことです。皆、私が施設にいることを知っていたはずですが、差別したり特別視したりせず、普通の友達として優しさや思いやりをたくさんくれました。本当に感謝しています。
3つ目は、5歳までは母親の愛情をたくさん受けて育ったことだと思います。5歳までは母親はすごく優しかった記憶があります。施設には0歳児から乳児院に預けられた子もいましたが、そういう子たちより救いようのない寂しさや心の傷が少なかったのだと思います。でも、彼らとはほんの紙一重の差しかありません。もし何かが違っていたら彼らのように非行に走ったかもしれませんし、彼らの気持ちはよく理解できます。

―高校生になって、進路をどのように考えましたか。
埼玉県の公立高校へ行きました。当時は大学に行くつもりはありませんでした。法律上、高校を卒業したら施設から出ていかなければなりません。やりたいこともないのに大学に行ってどうするのかと思っていました。施設を出て働くという選択肢しかなかったのです。
―それで働きはじめた。
最初はエンタメ系の会社で数ヶ月働き、次に化粧品と健康食品の会社で5年働きました。お金を稼ぐことに没頭していました。病気や怪我をしても頼る人などいない、頼れるのはお金しかないと思っていましたから、土日も休みなく働いて貯金を増やすことに専念していました。
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